工学部・水柿助教授の逡巡、あったので読んだ

 工学部・水柿助教授はシリーズ物で前に日常を読んだので続編の逡巡をまぁ流れ的に読んだわけです。

 

 読めば内容はわかるのだけどと言っても、それはそうだろうと思うわけで早い話読んでもらいたいのだがそれでは記事にしている意味ではないかと自分に言い聞かせていこうと思う。

 前にも言った通り内容は読めばわかる、肝心の内容というのはなんというか、、著者の生きざま物語、生きざまと物語って意味が重複していないか?そんな話は却下、物凄く細かいwikipedia、のような感じだった。

 登場人物

 水柿:著者

 須磨子さん:奥さん

 その他:出版社関連人物

 こんな感じだろうか、その他と称し雑過ぎないか?と思われる人も多いかと思うが本当にそんな感じなので悪しからずと言いたい。

 なんというか、水柿夫婦の会話の癖みたいな独特な文体というか、、あれだ、言い回しだ!言い回し、このあたりが非常に読んでて楽しくなるんだな。

 

 内容の真偽については知らないけれど、youtubeやweb記事などにインタビューらしき物がアップされていて読み聞いた限りでは多分著者の人生がこの作品に書かれている通りに近いものなんだろうなと感じました。

 メディアの露出はほとんどないので逆に記事や動画は見つけやすいと思う。

 

 やりとりに癒される感じか、会話に出る心情だったりするものにとても癖があってそういうところも面白かった、面白いかどうかは読者の主観に依存すると思うが、、みたいなのが一杯出てくる、とても微笑ましいようなツボというかそんな感じ、次が読みたい、、。

 

 どうだろうか、前回、前々回とは格段に読みやすくなっていないだろうか、短くした、最後まで読んでくれたらありがとう、そうでない場合はもっと面白くするor簡潔にしようと思う以上。

伝えたいことを伝えるために舟を編もう

舟を編む」を読みました。TVアニメ化を昨年の今頃にされていた気がする。

タイトルが独特で「編む」って面白いなあと思ったりした。

書店に面で売られていて(表紙が見える形)横に「水を抱く」が置かれていてタイトルだけでもわくわくしていたわけですが、小説家の方たちはどうも題名をつけるのにセンスがあって羨ましいなあと思うわけで、あちらも惹きつけさせるのに必死なのだろうとかとかとか……。

 

 会話する際に伝えたいことの10割を伝えるのってまず不可能で良く理解しあえた仲でも7,8割の共通理解で「あ~大体理解した(なんもわからん)」なんてのが通常だと思うのですがどうでしょうか、主語がない会話をしていたり使う言葉の半分も理解しないまま使用することが私は多いと感じています。

 

 最近は語彙力(ボキャブラリ)を増やすことが注目されていたりしますね、「とにかく凄い(語彙力)」「面白い(語彙力)」という投稿内容を頻繁に見ますw語彙力と言いたいだけなのではと思う今日のこの頃だったりします伝えたいことを伝えるためにもっと言葉の海を彷徨うこと、意識してもいいのではないでしょうか。

 

 子供の頃はまだインターネットが普及しておらず知らない単語があったら一つ一つ辞書で調べなさいと両親に言われたものですが最近ではすっかりググって(検索)してしまいますよね便利なことはとても良いのですが知る上でそれが本当に自分のものになっているかは疑問に残ることが多いです現に調べるだけで終わるので、使用方法だったり相手に伝えきれているか本当のところはわかりません、そんな理解しやすく伝えることの難しさがあります、「舟を編む」、世の中には言葉が溢れていて日々色々な言葉が生み出されそんな言葉の海を渡る、渡るにふさわしい舟を編む「大渡海」という辞書を作る物語。

 

 あなたは伝えたいことを伝えられていますか?その気持ちを形容する言葉が出れば相手が理解できたのかもというような状況に幾つも出会ってきているはずで、逆に相手の言葉を理解できればという悔しい思いが幾つかはあったと思います、沢山の言葉を知っていればより分かりやすいより伝えやすい選択肢が増えるのです、その選択肢増やしてみませんか?

 

 

もっと広い意味のような漠然としたなにか

 具体的で主観的なもの、つまり見たままを感じ表現するのは現代の人間とって非常にわかりやすい表現、概念だと感じる(そのままだから)、対に、抽象的で客観的なもの、つまり自分以外の視点(俗に言う相手の立場)での表現、概念になると途端に難しく感じる。

 

 そんな抽象的な考え方、物事の本質を捉える思考とは俯瞰的思考とはどう体得していくのかを分かりやすく(抽象的を具体的に近い形で)解説している「人間はいろいろなもんだいについてどう考えていけば良いか」という書籍があるためそれについて自分なりに書いていく言わば感想みたいなアレだ。

 

 まずなぜ抽象的思考について関心が出てきたかと言うとそれは単純に周りを見たい(視野を広げたい)(物事の本質を把握したい)からで、つまり周りが見えていないからである(恥ずかしい)、ただなぜ抽象的思考が必要なのかとか、本質を知らねばならないのか、視野を広げる必要があるのか等々、読んでる中で疑問が出てきたのだが思うに、本質を見失わなければ世の具体性に振り回されることなく生きられるのではと自分なりの芯を持ちたいからだと今では考えている。

 

 具体さに振り回されるといえば身の周りで思い浮かぶ限りでは議論や会話の場である、よく話が脱線する、本質に沿った脱線ならば良いのだが(それは脱線とは言わない?)そうもいかないもので、無為な脱線した話題で時間を消費することも少なくなく、これが具体さに振り回されている状態であり由々しき問題だと思う。(たぶん蒙昧さが駄弁りを招いていることの要因かもしれない)

 

 抽象さが失われる理由が、具体的な情報が溢れすぎていることが挙げられ例えば、知りたいことは検索さえすれば知ることができるので考える間(考える間とは:想像や妄想、問題への予想が該当する。)が失われていることや、受信した情報が既に偏っていたりすることが考えられる、そして現に世の中が便利すぎることも抽象的思考を妨げている要因であるように思われる、考える時間もなしにネットで検索してしまうしそこまで考えなくても物事は進み生きていける問題があり何かと具体性が溢れすぎているからだろう。

 

 では、どのように抽象さを養えばよいのか、それは具体的な手法はないらしい(抽象的とうのはそいうことらしい)ので一旦、冷静になること、何か起きた際、「その事象に対しての脅威を議論し脅威だから反対と盲目的になる」のではなく、「その事象に共通や関連する脅威も視野にいれ対策をする」このように関連付けた、ぼんやりとした視野で物事を見ることがコツのようなものらしい。さらには本を読んだり映画、美術、博物館へ赴き鑑賞する、ライブに行くなどして知見を得たりすることで普通を常識を疑ってみたりすることが抽象的だといえる。

 

 固定概念を捨て、何が本質かを見極めるために疑ってかかることや一点に拘らず共通なものを連想していくようなものが抽象の近道なのかもしれない、また、本書に書いてあることにこだわることがその時点で具体的であり抽象的でないだろうし、この解釈の正誤を求めることが本質ではないのだと思う。

テレパスねだり

タイトルはそう「無い物ねだり」との掛詞だ。(掛かってたらよし掛かってなくても良し)

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人の心を読み取る事が出来るという設定から求めていた作品にやっと出逢えた!なんてことを思いながら感慨深さに浸っていました。

 

 人にものを頼まれる時に限っては中々に時間をかけ人をイラつかせたもので例えば、(指定の場所)から(指定のもの)を取ってきてなんて頼まれるのだが、これが全く見つからない、見あたらない。そしてこの程度のことをなぜなのだとおもわれ結局指示した本人が探し当てる、立場なんてあったもんじゃない。そんなことが毎回起こるのでテレパシーを題材にした作品がここまでの感慨深さを引き起こすのですよね、まぁさすがに無理だろうとなりましてそれなら同じ考えができるように思考チップかわからないですがそれに近いものを脳に埋め込めたら言われなくとも言わずとも阿吽の呼吸宛らの対応ができるだろうと思ったのですね。

 ですが冷静に考えてみると自分が収納していないものの在処がわかるものかと寧ろそれで探し当てたらおかしいだろうと憤りを感じ、それで怒るくらいなら自分で取れと、そのほうが早いではないかとそこまで怒る必要はないだろうと何故自分はこのような思いを…と憂鬱になっていたのでこの「家族八景」を読むまでは作品への高揚感で日頃の憂鬱さを相殺しようとしていたのですがまさかまさかの展開内容で読んでいて苦しい思いをするなんて思ってもみなかったわけです。

 

 物語の主人公は火田七瀬、18歳のお手伝い業をしている女性である、物心ついた時からテレパシーの能力がある、タイトルの「家族八景」という文字通り家族の景色、心理描写が八家分楽しめるというもので七瀬は様々な人間模様に触れ、成長し、読者自身もその複雑さに悩まされる内容であった。

 

 人の思考を読めることの有利さと代償は分からなくもなかったが作り物(作品)といえどここまで人間を人間らしく表現できるものかと脱帽した、もし自分がテレパシーを扱えていたら心など失くしてしまうだろうと、人の心の言動までも疑いの心でかかってしまうと今はそう思うほどで、正しく無い物ねだりであったと今になり作品を介し痛感している。

 現実の人間が発言したこともそうだし発言していない時だって人は考えていてそれが自分への好意だったり敵意、ならまだしも行き過ぎた色目だとするととてもじゃないが心落ち着く暇も無くなってくるし聞こえるなら尚更、嗚咽が走っても不思議ではないテレパシーが使える環境というのは便利に見えた酷な環境なのだと思わされた。

 

 会話せずとも伝えられたらどんなに楽か、言わずとも聞こえる、コミュニケーション要らずで便利だ、なんて軽率に考えていると本当に人間として大切なものが見えなくなり人間らしさが失われていくような気がする、思考だけは自由なものであり言葉を重んじて日々を生きていきたいと思わせる、そんな景色を見たような気がした。

きっかけ

なにかしたいな~なんて思った際、なにかしたいな”だけ”で終わる事が非常に多かったので流石にこのままでは…と内なる私が醒め、”何か”をする、そして2~3日で意気込みが消失する現象、三日坊主である。この未来の自分に任せようとする怠けさ、言わば、数時間後の僕へ受け継がれゆく代理代理戦争である。

 

 ある物事を習慣化するのには1日2日では到底無理なことは自明、ある専門家によると一つのことを習慣化に移行されるまでの日数は22日~24日(約1か月)程度らしい、そう、1つだけ習慣化するのに1か月も要するらしい、しかもこれには個人差がある少なく見積もっても習慣化まで、1か月半長いと2~3か月になるという、これは面倒だ(思わざるを得ない)。

 しかしこうも言ってられないので何か手っ取り早い何かを探して見つけたものが”読書”である、読書の特徴としてオフラインなところが利点で、相手からは「何か読んでるのでそっとしておこう(邪魔をしないでおこう)」というよな心理が働いて結果相手を傷つけることなく自分は目の前の活字を読み進めることに集中ができる良い空間を築けることが可能であること。

 さらに個人に作用する利点として本は、読み進めていくと意外にも面白くて自分の価値観、思考、発言内容等様々なことがどんどん変化していく、人間ってこんな面白い物の考え方ができるんだなぁと関心したりする、といった自分なりの読書への面白さを見出してしまった僕は気づけば読書が習慣と化していた(やったー!)。

 

そんなわけで去年の10月頃から薄い本(語弊がある)(200p程度の小説)を読み始め、最初は読み切れないと購入前から意気込みが消失していた500p程の本へ、段々と手を伸ばし始め最近では本が手放せない存在にまでなった(嬉しい)。

 

 自分にしてはかなりの冊数を読めたのでこの機会だ!と意気込んでアウトプットをしてみようではないかと思い立ち、これを最初の書き出しとし本文章を締めておこうと思う。